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さくらのみのじゅくするとき

桜の実の熟する時

島崎 藤村

「文章世界」1913(大正2)年1~2月、1914(大正3)年5月~1918(大正7)年6月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 111,569 字 · 222 页

青空文庫

と他に言われても彼はそれを拒むことの出来ないような気がしていた。その心から、岡見にたずねて見た。

「僕の足は浮ついているように見えましょうか」

「どうして、そんな風には少しも見えない。いかなる場合でも君は静かだ。極く静かに君はこの世の中を歩いて行くような人だ」

この岡見の言葉に、捨吉はいくらか心を安んじた。

礼を述べ、別れを告げ、やがて捨吉は東京から穿いて来た下駄を脱ぎ捨てて、上り框のところで草鞋穿きに成った。

「いよいよお出掛でございますか」

と婆やもそこへ来て言った。

自分ながら何となく旅人らしい心持が捨吉の胸に浮んで来た。草鞋で砂まじりの土を踏んで、岡見の別荘を離れようとした。その時、岡見は捨吉に随いて一緒に木戸の外へ出た。

「じゃ、まあ御機嫌よう。お勝さんの方へは妹から君のことを通じさせることにして置きました」

と岡見が言った。

この餞別の言葉は捨吉に取って、いかなる物を贈られるよりも嬉しかった。実に、一切を捨てて来て、初めて捨吉はそんな嬉しい言葉を聞く事が出来た。それを聞けば、もう沢山だ、とさえ思った。

清之助も、涼子も、岡見と一緒に、朝日のあたった道に添うて捨吉の後を追って来た。