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さくらのみのじゅくするとき
桜の実の熟する時
島崎 藤村
「文章世界」1913(大正2)年1~2月、1914(大正3)年5月~1918(大正7)年6月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 111,569 字 · 222 页
彼女の話し掛ける言葉や動作は何がなしに捨吉の心を誘った。旧い日本の習慣に無い青年男女の交際というものを教えたのも彼女だ。初めて女の手紙というものをくれたのも彼女だ。それらの温情、それらの親切は長いこと彼に続いて来た少年らしい頑固な無関心を撫で柔げた。夕方にでもなると彼の足はよくこの姉らしい人の許へ向いた。多くの朋輩の学生と同じように、彼も霜降の制服のすこし緑色がかったのを着て、胸のあたりに金釦を光らせながら、そよそよと吹いて来る心地の好い風の中を通って行った。星の光る空の下には、ある亜米利加人の女教師が住む建物がある。構内には繁子の監督している小さな寄宿舎がある。その寄宿舎の入口で、玄関で、時にはまだ年のいかない女生徒なぞを伴いながら出て来る繁子とさまざまな話をして、わずかばかりの黄昏時を一緒に送るのを楽みとした。繁子は編物の好きな女で、自分の好みに成った手袋を造ってくれると言って、彼の前で長い毛糸の針を動して、話し話しそれを彼に編んで見せたことも有る。
彼は再び繁子に近づくまいと心に誓っていた。仮令途中で擦れ違う機会が有ってもなるべく顔を合せないようにして、もし遠くからでも見つけようものなら直に横町の方へ曲って了うようにしていた。