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さくらのみのじゅくするとき
桜の実の熟する時
島崎 藤村
「文章世界」1913(大正2)年1~2月、1914(大正3)年5月~1918(大正7)年6月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 111,569 字 · 222 页
見て来たことがこんなに自分の心を暗くするであろうかと。岸本は小父さんがわざわざ案内してくれた芝居からは反って沈んだ心持を受けて来た。
芝居を見物した日は夕方から雨に成った。桟敷に居て雨の降るのを聞きつけた時は、楽しいようで妙に淋しかった。気味の悪いほど暗い舞台の後の方から突然に出て来る悪党の顔や、死を余儀なくされる場合の外には悔悟することも知らないような人の心や、眼の眩むような無法な暗殺の幕は、どうかすると見物半ばに逃げて帰りたいような気を起させた。芝居のはねた頃は雨がまだ降っていた。茶屋の若い者は番傘を運んで来たり、弘を背中に乗せて走ったりした。
「どうして成駒屋の人気と来たら大したものだ。しかし先代の若い時はもっと人気があった。娘が幾人身を投げたか知れない。芝居のはねる時分には裏門の前あたりは人で通れなかった位だ。そうして皆な役者を見に来たものだ」
と小父さんは話してくれた。芝居見物と言えば極りで後に残る名のつけようの無いほど心細い、いやな心持の幾日も幾日も続いて離れないことは、余計に捨吉をいらいらさせた。眼の球の飛出たような役者の似顔絵、それから田辺の姉さんの枕許によく置いてあったみだらな感じのする田舎源氏の聯想なぞは妙に捨吉には悩ましいものであった。