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きくづきよ

菊月夜

山本 周五郎

「講談雑誌」博文館 、1944(昭和19)年10月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 16,129 字 · 32 页

青空文庫

彼は不審そうに母を見た。疋田はこの鶴岡藩酒井家の重職のいえがらである。こちらは八百石の郡代で身分も違うし、これまで物を贈答するほど親しかったとはかつて聞いたことがなかった。それでも父の佐垣藤左衛門は郡代だし、兄の市九郎は書院番にあがっているから、どちらかへ贈り物ならまだしもわかる。けれども信三郎は二十三歳になるが部屋住であり、しかも幕府の法制を勉強するため江戸邸に四年いて、つい四五日まえに帰藩したばかりだった。重職の家から、息女てづくりの菓子を名ざしで贈られるなどとは、考えも及ばぬことだったのである。

「……ええ」母親はなぜか眩しそうに眼叩きをしながら頷いた。「この頃は絢子どのも、ときどきここへおみえになりますよ、老職のご息女とは思えないおしとやかな気質で、眉つきお眼もとのそれはお美しいかたです……」

「ご馳走さまでした」信三郎は茶碗を置いた。「少し書き物がございますから……」話題が見当のつかぬほうへ外れてゆくので、彼はそういいながら机のほうへ向き直ってしまった。

数日して仕事の予備報告をするために、彼は奉行役所へ出頭した。四年かかったけれど、幕府の法制の研究は完成したわけではない。