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あしはみていた

葦は見ていた

山本 周五郎

「週刊朝日」1947(昭和22)年6月22日号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 17,985 字 · 36 页

青空文庫

それからまもなく、女はまた進みだした、川心に向って、――水は腰から胸のあたりまであがった。濃い霧の条が来て、いちど女の姿をすっかり隠した。次に見えたとき、女は殆んど首まで浸っていたが、そのとたんにふっとその首も水の中に沈んだ。そこに水の輪ができ、静かに輪がひろがった。

まもなくまた女の頭が見えた。沈んだ処から四五間川下で、ばしゃばしゃと水を叩き、はっはと短く喘いだ。そして、いちど沈んだかと思うと、もっと川下でもういちど頭が浮いた。それはかなり早い速度で川下のほうへと流されていたが、もう霧に遮られてよくは見えなかった。

「計さん」女の声がした、「計之介さん」

それは水を含んだ口から出る声であった。つづいて「かぼっ」という水音がし、もうなにも聞えなくなった。

空はますます明るくなり、風立って来た。風は川上のほうから静かに吹きはじめた。そちらから順々に葦が揺れて来るので、吹いて来る方向がわかった。すると、霧はにわかに巻きたって、条になり渦になり、川下のほうへと流れはじめた。川岸の夏草も、堤の灌木の茂みも、びっしょりと霧粒のために濡れた。

汀に置かれた草履も、あの文筥も濡れていた。