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なべしまかいのかみ

鍋島甲斐守

吉川 英治

「オール讀物」文藝春秋、1936(昭和11)年9月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 11,322 字 · 23 页

青空文庫

それよりも、そちの生涯の一善になれば、こんなよい事はあるまいが』

甲斐守が諭すと、

『いえ』

と、この男にしては、めずらしく強く首を横に振った。

『手前がすぐ引移って住むつもりでございます』

『住居にする? ……でもそちは、養女のお高とただ二人暮しではないか』

『でも、いちどは、住むつもりでございます。そのわけは、手前はあの半田屋の大旦那に、そのむかしあの店頭で、牛か馬かのように、口ぎたなく叱言をいわれ、足蹴にされたり、漆棒で撲られた事もございます。そんな時には、往来には人だかりがして、人が撲られるのを面白そうに見物し、お帳場には、そこにいる御新造様が、すずしい顔をして見ていらっしゃいました。そのあげく、半田屋のお店から抓み出された手前でございますから、いちどは住んで、往来へ向けて自分の名標を打たなければ気がすみません。ハイ、お奉行様の仰せも、半田屋のおかみさんの仰せも、御尤でございますが、そんな次第でございますから、手前は、お上の御法と証文の面どおりに従いとうぞんじます』

そう云って、彦兵衛は口のうちで、

『なむあみだぶつ。なむあみだぶつ……』

と、念仏をとなえていた。