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なべしまかいのかみ

鍋島甲斐守

吉川 英治

「オール讀物」文藝春秋、1936(昭和11)年9月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 11,322 字 · 23 页

青空文庫

十

『……どうしよう』

自分の力の及ばない場合というと、彦兵衛はいつでもすぐに、お上の御法規というものを頭脳の中に持ち出してみる。国家の法律は、自分のために出来ているように考えているらしかった。

『おねがいです』

自身番へ馳けこんで、ちょうど外の涼み台で、祭りの御神酒を酌みかわしていた番太や、同心たちへ早口に訴えた。

町方の役人たちは、口をつぐんで、顔を見あわせた。今も今とて樽神輿のうわさをしていたところだった。青ぐろく引っ吊れている彦兵衛の顔を見ると、同心たちは、おかしくなったのであろう、干鯣を裂きながら、笑って云った。

『彦兵衛、それやあ、いっその事、お奉行所へじかに駈け込んだほうがいいぞ。なぜなら、相手が侍だし、新之助の父親が、腹を切ったというその出先は、雲州侯の重臣のやしきらしいんだ。ちょっと、厄介事だからな』

『そ、そうでしょうか』

彦兵衛のあたふた駈けてゆくうしろ姿を見送って、涼み台で又、笑いばなしが弾んだ。

十

たてつづけに喋舌って訴える彦兵衛のことばを、鍋島甲斐守は、一口も挾まずに、終りまでじっと聞いてやっている。

『うム』

うなずいて――

『では彦兵衛、そちの訴えは、養女を取り戻してくれというのだな』