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おみつかんざし
お美津簪
山本 周五郎
「キング増刊号」大日本雄辯會講談社、1937(昭和12)年8月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 13,158 字 · 26 页
きっと、きっと真人間の正吉になって帰ります」
「いけない。一緒に来て、正さん」
「左様なら、正吉を可哀そうな奴だと憫んで下さい、――左様なら」
「待って、待って、正さーん」
追い縋るお美津の手を振切って、正吉はよろめきよろめき走り去った。――ふところへ入れた右手には、さっき居酒屋の土間で拾った、お美津の花簪を確りと握りながら。……高く高く凩のゆく空を、またしても雁の群が、びょうびょうと鳴きながら西の空へと渡っていた。
その明くる朝。
ようやく明けたばかりの江戸橋の船着場に、雪のような白い霜を浴びて、一人の男が死んでいた。それを発見したのは、その朝そこを出帆する長崎船「八幡丸」の船頭だった。
死体の男は脾腹に無残な傷を受けていたが、しっかりと胸へ押当てた手には、美しい花簪をひとつ固く固く握り緊めていた。――集って来た人たちは、男のみすぼらしい身状と、哀れな死に態と、美しい花簪と謎のような取合せについて、思い思いの話題を拵え合っていた。けれどその死顔が、些かの苦痛の影もなく、名僧智識の大往生にも似た、安楽の頬笑をうかべていた事に気付いた者はなかった。
天保十一年十二月十七日朝の七時さがり、長崎船の八幡丸は、この奇妙な死体の横たわっている岸を離れて、貝の音も勇ましく、すばらしい凪ぎの海へと船出して行った。