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くちびるそう

唇草

岡本 かの子

「週刊朝日」1937(昭和12)年8月2日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 7,002 字 · 14 页

青空文庫

尾佐は千代重がだんだん家庭に慣れて来たとき、珍らしく嬉しそうな顔をして彼女にいった。

「おれがだんだん人事に興味を喪う人間になるのに引きかえ、千代重君はいつも溌剌としている。生活の組合員としては面白い資格者だ。おれの助手とはいいながら、実は君の相手に来て貰ったようなものだ。それでおれが君を寂しくしといた埋合せがいくらかつく。おれは千代重君に礼をいっていい。場合によったらおれはこの組合からはずされてもいい。なにおれは独りで悲しみや寂しさを味わう方が、幸福に想える不思議な人間だ」

これが手前勝手ばかりの男のいうことであろうか。栖子はこういう時の尾佐の頭に、恋愛時代に見たと同じ真摯なものを見たのであった。栖子は思う。自惚かも知れないけれども、尾佐は根から寂しい男だったのを、自分だけがこの男に一時でも花やかなものを引き出してやった。尾佐に一生に一度の青春を点火してやったのだ。

想えばいじらしい相手だ。尾佐はいまどこで寂しい白日の酒を忸怩として飲んでいるであろうか。

栖子の両手の指先きが、つやつやした豆莢の厚い皮をぺちゃんと圧し潰し、小さい鼻から目の醒めるような青い匂いを吸い込みながら、莢の裂け目へ右の指先を突き入れると、彼女の指先になまなましい柔かいものが触た。