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わすれのこりのき

忘れ残りの記

吉川 英治

吉川英治『忘れ残りの記』。同一底本的分册已合并为一书。收入:忘れ残りの記、年譜。

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 193,050 字 · 383 页

青空文庫

だから、ぼくら子供らは、母の寝起き姿のままの汚い素顔や、だらしのない恰好は、殆ど見ない程だった。今でも母の顔を思いにえがくと、どんな貧乏時代の母でも、母は薄化粧したきれいな人として胸に浮かんでくるのである。こんなのは、たいへんなお洒落ともいえるわけだが、父にいわせれば、それが女のたしなみだったようである。といって、鏡台の前に長々と坐って、母が口紅をつけたり髪をいじくっている姿も余り見たことはない。それなどを当時のことばで「おひきずり」と云ったのであろうと思う。

ぼくら男の子は、紺ガスリに黒の兵児帯と極っていた。紺ガスリ以外ほかの着物は着せられたことはない。学校通いには必ず小倉の袴をはき、袴のはき方は父からじかに教わった。どうかして、その袴の紐をぶらぶら垂らして歩いているのを見られると、すぐ母からも叱られた。当時、横浜には不良の愚連隊が横行して、おそろしく長い羽織の紐をつけ、その先っぽをチョッキリ結びにして頸へ引っ懸けて歩くのが流行ったが、そんな真似などすればなお叱られた。ともかく服装は、いつもきちんとしていないといけなかった。その習性で、ぼくはつい近年まで、和服の帯でも洋服のバンドでも、腹のくびれるほど固く締めないと気がすまなかったが、この頃は逆にゆるやかでないと気もちが悪いようになった。