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わすれのこりのき

忘れ残りの記

吉川 英治

吉川英治『忘れ残りの記』。同一底本的分册已合并为一书。收入:忘れ残りの記、年譜。

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 193,050 字 · 383 页

青空文庫

けれど、じっさいのぼくは、箸の上げ下ろしにも恐いやかましやの父親が居ないという家庭がただ珍しかっただけである。厳父の居ない慈母だけの家に、母と暮している愉しさが、自分を軽快にしていたのだった。

父の姿を家に見なかった幾月かの間、母は何して生計をたてていたのだろうか。この頃からぼくは母の代りに屡、質屋のかどを潜った。母が新妻時代にでも使ったらしい鼈甲の櫛笄やら簪などを入れた小筥と、ぼくの顔とを、質屋の主人にじろじろ見くらべられて、顔を真っ赤にしたばかりでなく、足がふるえた事などが今も忘れえない。質屋の利用観念も、人の見る眼も、今とはまったくちがっていた。

また度々、母の手紙を持っては、知人の家へ、貸金を返して貰いに行った事などもある。母は以前から父にも内緒で、親しい人とか出入りの大工、商人にまで、よく融通を頼まれては、用立ててやったらしく、それをこのさい、幾らでも、お返しを願えれば――と先方へ頼むわけだが、めったに返してくれた例しはない。そればかりでなく、まだ自分に味わった事のない冷ややかな他人の素振りにぶつかるので、いくら母の頼みでも、このお使いには、時々ぼくも渋ってみせた。