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わすれのこりのき

忘れ残りの記

吉川 英治

吉川英治『忘れ残りの記』。同一底本的分册已合并为一书。收入:忘れ残りの記、年譜。

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 193,050 字 · 383 页

青空文庫

独り小使部屋に寝泊りしていて、なに屈托なく働いているふうだった。毎夕煤けた電灯が点く頃まで、ぼく一人が居残って残り火の十能だとか薬罐などを返しにゆくと「これあね、今日××商店の開業十周年に貰ったんだよ、喰べておいでよ」と、お赤飯に切りスルメや卵子焼の入った折をくれたりした。この小使の爺さんから貰う物には、ぼくは何も卑屈を感じなかった。半分残して、うちにいる弟に持って行ってやりたいというと、爺さんも「それがいい、それがいい」と、云ってくれた。何かにつけ親切にしてくれた。

そのせいで、ぼくはこの小使爺さんの噂には、自然聞き耳立てた。それに依ると、爺さんは南仲舎では最古参の勤続者らしかった。越後の人で南仲舎主人の同郷人でもあったらしい。で、数年前に、勤続何十年かの表彰とまとまった金を貰い、晴れて郷里へ帰ることになった。土産物まで買っていたそうである。ところが急に帰郷は止めると云い出して、以前とちっとも変らず小使部屋に泊って黙々と働き出した。当座、理由が分らなかったが、近所の相場師仲間の口からやがて評判になった。三十年か四十年か知れないが、その功労で褒賞された大金と、それまでコツコツ稼ぎ溜めた貯金全部をおろして相場に賭け、一夜に元も子も失くしてしまったのだそうである。