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わすれのこりのき

忘れ残りの記

吉川 英治

吉川英治『忘れ残りの記』。同一底本的分册已合并为一书。收入:忘れ残りの記、年譜。

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 193,050 字 · 383 页

青空文庫

という事など、何度聞かされたかわからない。

要するに、若い日の父は、こんな風な単純さを、誇ってさえいたようである。その後、花柳界の婦人と同棲したという件なども、官員さん社会には、定めし指弾されたことだろう。まもなく、長野県庁へ転任を命ぜられ、長野市に下宿住居している間に、小田原に残しておいた妻が、留守の間に、男に殺されたのであった。情痴沙汰で、これは新聞にも書かれたりした為、父は面目無さに、辞表を出し、それきり官途もやめ、数年は小田原に帰らず、放浪していたらしい。

父は南画をよく描いた。ちょッとした山水や蘭菊などを黄大癡風に画いて、牛石、逸民、石声などと雅号を入れていた。漢詩も得意で、ちょっとした葉書や手紙ぐらいは、筆がなくても、マッチの棒とか小楊枝の先をちょっと噛んで、竹筆のような味の文字をすらすら書いた。

少年時代を道了権現の寺房で送ったお蔭だよとよく云っていた。しかし、大胆なものである。それッぱしの余技をもとでに、長野県庁をやめた後は、一年余りを画家と称して遊歴したのだといっていた。父の描いた余り上手でない墨蘭や四君子などを、ぼくも子供の頃、よく見たものだし、柱掛けだの額面などを人から依頼されると、これは大得意で、誰にでも描いてやった。