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わすれのこりのき
忘れ残りの記
吉川 英治
吉川英治『忘れ残りの記』。同一底本的分册已合并为一书。收入:忘れ残りの記、年譜。
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 193,050 字 · 383 页
)簡単にしておくが、毎夜、家に帰ってから父母に黙ってそっと按摩をして歩いたのもこの期間の事だった。駄菓子屋で売っている三角袋の麦コガシには玩具の笛が附いている。あれを二本、木綿糸でしぼったのを、ふところに持って、人の知らない遠くへ行って流したのである。これは或る事情でまもなくやめたが、母だけは知っていた。なぜならその稼ぎの十銭か十五銭は、母に渡していたからである。
それを済まなく思ったのであろう、母もまた毎朝、大福やあんころ餅を仕入れた箱を背負って、ぼくと共に家を出かけ、工事場で一日売りひさいで、夕方は一しょに帰った。仕入れ先は、高島町の河岸近くで、そのため朝は星のあるうちに家を出るので、殆ど寝る時間は少なかった。けれど、そんな事をしても、母と共にする眠たさや暗い道の朝夕は、何か愉しかった思い出として今も残っているし、その時にしても、少しも辛いとは正直思っていなかった。
だが、母の餅売りも、結局は無駄骨折りに終ってしまった。なぜなら顔馴じみになると、貸しがつもり、貸したがさいご、それは容易に払ってくれないからであった。元より資本があってしたわけではなく、それも血の出るような無理工面で始めたのだから、忽ち元も子もなくなり、泣き寝入りのほかにはなかった。