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わすれのこりのき

忘れ残りの記

吉川 英治

吉川英治『忘れ残りの記』。同一底本的分册已合并为一书。收入:忘れ残りの記、年譜。

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 193,050 字 · 383 页

青空文庫

けれど弟と同時にでは、T氏の方も困るので、弟はなおT氏の許において、ぼく一人で、下谷西町に間借し、その日から仕事を探した。いちばん先に仕事を与えてくれたのはO商会で、次いで日本橋のH商会でも、励ましてくれた。その頃、H商会主の弟で、大学の制服着の儘、よく下職廻りにも歩いていた笠井政一氏は、いま品川区の区会議長をしている。

東京で初めて、自分の畳として持ちえたぼくの根じろは、下谷西町の髪結さんの二階であった。梯子段の上がり口が三畳、襖隣りが八畳である。だが、ぼくが借りたのは三畳の方だけで、八畳の方には、落語家の夫婦者が住んでいた。

ぼくはその落語家を、先々代の左楽か、又は当時の志ん生であったかなどと考え、よく思い出せないのである。ぼくが二十二、三の頃、つまり大正二、三年頃の、その落語家は誰だったろうか、いちど読売のK氏を介して安藤鶴夫氏に調べてもらった事もあるがよく分らない。が、いずれにせよ、相当な師匠格だったような印象をうけている。ぼくは上がり口の三畳に机とじょうばんをすえて、終日仕事の蒔絵筆をもっているだけなので、よく頭の上を、てん屋物やら酒やらが通ってゆく。