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わすれのこりのき
忘れ残りの記
吉川 英治
吉川英治『忘れ残りの記』。同一底本的分册已合并为一书。收入:忘れ残りの記、年譜。
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 193,050 字 · 383 页
ぼくは、父の顔が、色をひくのを見てから、真っ暗な二階に上がって、唯一人で突っ伏していた。そのうちに、知らせで寄って来た知人の細君が、ぼくを揺り起しに来た。びくッと、我に返ったように、ぼくが顔を上げたら、その細君は悲鳴に似た声を上げて、階段を駈け戻ってしまった。あとで聞いたら、ぼくの顔が、狂気したように見えたのだそうである。自分では知らなかったが、そんな慟哭に沈んでいたらしい。
母の死は、なお語るに忍びない。母はそれから三年後の、ぼくが三十歳の六月に死んだ。家は向島の植木場という所へ移っていた。幸田露伴翁の垣のすぐ近くだった。せめて、父の死後の三年間、それぞれ子供たちも成長した中で、余生らしき日を、たまには熱海や千葉海岸などへ、転地もさせたりして送らせた事が、ぼくらには、些かな慰めだったが、しかし母はやっぱり口ぐせに「……お父さんが居たらねエ」とか「お父さんて人は……」とか、常に、淋しみを洩らしていた。
致命的な病原は腸結核だと、医師が云った。ぼくはすぐ、母が廓へお針さん通いをした事があったのを思い出した。病菌はその頃受けたのではないかという傷ましさが今も消えない。