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わすれのこりのき

忘れ残りの記

吉川 英治

吉川英治『忘れ残りの記』。同一底本的分册已合并为一书。收入:忘れ残りの記、年譜。

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 193,050 字 · 383 页

青空文庫

父は、かつて自分が受けた通りな子弟教育の範を、封建そのものの薫陶を、子のぼくへ、課し初めて来たのである。

毎日の学科がすむのは、午後二時か三時頃である。もう級友はみな帰ってしまい、ガランとした教室の中には、ぼくと英語の先生だけが残っている。ナショナルのリーダーの一を前に“It is a dog”だの“It is a hat”などを繰返しているうちに窓外は薄暗くなってゆき、帰りたさ、遊びたさに、堪らなくなってくる。

自分も知らないうちに、リーダーの上へ、涙をぽろぽろこぼしたりした。これを半年ほどやってゆくうちに又、九歳の一月からは、もう一つ夜学の励みが加えられた。

夕方、家に帰ると、すぐ晩飯を食べてから、今度は、前に書いた少女の家のスジ向いに住んでいる漢学の先生の所へ、毎夜夜学に通うのだった。

この先生は、お母さんらしい老婆と学生の弟さんと三人暮らしで、奥さんはなかったようだ。水戸の人で、岡鴻東と覚えている。まだ三十がらみの小づくりで温容な人だった。いつも黒木綿の紋附の羽織を着、袴をはき、ぼくのお辞儀に対してさえ、礼儀正す風だった。桑の木か何かの小机をおいて、先生と向いあうのである。