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おうぎの

扇野

山本 周五郎

「面白倶楽部」大日本雄辯會講談社、1954(昭和29)年5月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 33,727 字 · 67 页

青空文庫

「頂きます、大好きなんです」

「そいつはしめた、――ついでに名前も聞かせてもらおうか」

「名無しの権兵衛と申します」妓は盃をぐっとあけて云った、「字名をおつる、どうぞよろしく」

「おつる、すると、――」

栄三郎はどぎまぎした。角屋の娘が呼べといったのはその名である、慥かに、おつるという妓を呼べと云った筈であった。

「すると、――なんですか」

「いやなんでもない、もう一つ重ねないか」

彼はおつるの眼をみつめながら酌をした。

まだ頭をこわしに来たという意識があったので、宗渓と遊んだ頃のように、彼には似合わない軽口をとばしたり、三味線に乗らない声で端唄などをうたったり、まるでやけくそな陽気さで騒ぎ始めた。おつるは情のこもった眼でにこにこ頬笑みながら、多くは黙ったまま彼を眺めていた。栄三郎は自分でもいや気のさすような騒ぎかたをした。二人の年増芸妓や女中たちは、しきりに彼のしなさだめをし、江戸の客には違いないが職業はなんだろう、などと云いあい、小花という妓が「なにか芸事のお師匠さんよ」と云ったのがみんなの同意を得て、ついに長唄浄瑠璃の師匠ということにきまると、すぐさま長唄の一と節をうたいだすようなこともした。