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おうぎの

扇野

山本 周五郎

「面白倶楽部」大日本雄辯會講談社、1954(昭和29)年5月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 33,727 字 · 67 页

青空文庫

栄三郎は眼をあげて金右衛門を見た。

「なにが中止になったんですって」

「競作の件でございます」金右衛門は微笑した、「はっきり事情はわかりません、たぶん相手の絵が思わしくなかったのでしょう、孝之介さまが自分から中止すると云いだされましてな、――もしもの場合には、貴方のお作は私が頂きたいと思っていたのですが」

栄三郎は頷きながら広縁へあがった。そうして、金右衛門が去ろうとするのを、ふいに振返って呼びとめた。

「船は今夜出るのですか」

「さよう、夜の十時でございます」

「私もそれに乗れますか」

「それはもちろん、――」と金右衛門は訝しそうに栄三郎を見た、「船は店のものですし、まだ二人や三人の客は乗れますが、どうしてまた急にそんなことを仰しゃるのですか」

「ぜひすぐに手配をして下さい」栄三郎は頑固な口ぶりで云った、「絵はこれから仕上げてしまいます、どうしてもその船で帰りたいと思いますから、ぜひそうお願いします」

そして、あっけにとられたような金右衛門を残して座敷の中へ入り、障子を閉めてしまった。

栄三郎はすぐに筆を取った。

絵は日の昏れがたに仕上った。七十余日の労作で、(もちろん満足ではないが)もう筆をいれるところはどこにもなかった。