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おうぎの

扇野

山本 周五郎

「面白倶楽部」大日本雄辯會講談社、1954(昭和29)年5月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 33,727 字 · 67 页

青空文庫

――栄三郎が鳥羽へ来たのは、その年の二月であった。角屋の店は港の近くにあるが、城下町の西南、日和山という丘の中腹に控え家があり、そちらに金右衛門の妻や娘が住んでいるので、栄三郎はそこの離れ座敷を与えられ、以来ずっとそこで仕事をして来たのであった。

襖絵の主題は金右衛門の注文で、「武蔵野の冬」ということになり、栄三郎にも気にいった図柄だったので、五月の中旬には下絵が出来あがった。けれども、そこで、四五日まをおいて見ると、なにかしら足りないものがある、――人影のない枯れ野、というのが彼の覘いで、動くものは野茨の枝の鶫一羽だけであった。一と棟の家も入れてはならないし、まして人物などは絶対に入れてはならないのであった。

――ではなにが足りないのか、なにをそこへ描き加えたらいいのか。

約半月あまり呻吟したあげく、石川孝之介にその点を指摘された。しかも、いまなお打開することができないのであった。

「なっちゃねえ、このくそ頭」

栄三郎は筆を投げて、舌打ちをした。筆は絵具皿に当って乾いた音をたて、毛氈の上へころころと転げた。

「てんで動きゃしねえ」そして右手の指で額を小突いた、「まるで砂袋のようだ、まるでぎっしり砂が詰ってるようなものだ」