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さくらのみのじゅくするとき
桜の実の熟する時
島崎 藤村
「文章世界」1913(大正2)年1~2月、1914(大正3)年5月~1918(大正7)年6月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 111,569 字 · 222 页
一
思わず彼は拾い上げた桜の実を嗅いで見て、お伽話の情調を味った。
それを若い日の幸福のしるしという風に想像して見た。
これは自分の著作の中で、年若き読者に勧めて見たいと思うものの一つだ。私は浅草新片町にあった家の方でこれを起稿し、巴里ポオル・ロワイアル並木街の客舎へも持って行って書き、仏国中部リモオジュの客舎でも書き、その後帰国してこの稿を完成した。この書は私に取って長い旅の記念だ。
一
日蔭に成った坂に添うて、岸本捨吉は品川の停車場手前から高輪へ通う抜け道を上って行った。客を載せた一台の俥が坂の下の方から同じように上って来る気勢がした。石塊に触れる車輪の音をさせて。
思わず捨吉は振返って見て、
「お繁さんじゃないか」
と自分で自分に言った。
一目見たばかりで直にそれが覚られた。過ぐる一年あまりの間、なるべく捨吉の方から遠ざかるようにし、逢わないことを望んでいた人だ。その人が俥で近づいた。避けよう避けようとしていたある瞬間が思いがけなくも遣って来たかのように。
ある終局を待受けるにも等しい胸のわくわくする心地で、捨吉は徐々と自分の方へ近づいて来る俥の音を聞いた。