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さくらのみのじゅくするとき
桜の実の熟する時
島崎 藤村
「文章世界」1913(大正2)年1~2月、1914(大正3)年5月~1918(大正7)年6月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 111,569 字 · 222 页
ポツポツ寄宿舎を指して岡の上を帰って来る他の生徒もある。「郷里の方では霜がもう真白」と言ったお母さんの言葉も捨吉の胸に浮んだ。寄宿舎の階段を上って長い廊下を通りがけに、捨吉は足立の部屋の扉を叩いて見たが、あの友達はまだ帰っていなかった。
自分の部屋へ戻ってからも捨吉は心が沈着かなかった。同室の生徒は他の部屋へでも行って話し込んでいると見え、点された洋燈ばかりがしょんぼりと部屋の壁を照らしていた。捨吉は窓の方へ行って見た。文学会や共励会のある晩とちがい、向うのチャペルの窓もひっそりとしていて、亜米利加人の教授の住宅の方に僅かに紅い窓掛に映る燈火が望まれた。何となく捨吉の胸にはお母さんの旅が浮んだ。やがて自分の机の上に新約全書を取出し、額をその本に押宛てて、
「主よ。この小さき僕を導き給え」
と祈って見た。
その晩はいつもより早く捨吉も寝室の方へ行って、壁に寄せて造りつけてある箱のような寝台に上った。舎監が手提の油燈をさしつけて寝ているものの頭数を調べに来る頃になっても、まだ捨吉は眼を開いていて、ポクポクポクポクと廊下を踏んで行く舎監の靴の音を聞いていた。