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さくらのみのじゅくするとき
桜の実の熟する時
島崎 藤村
「文章世界」1913(大正2)年1~2月、1914(大正3)年5月~1918(大正7)年6月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 111,569 字 · 222 页
平素めったに思出したことも無いようなお霜婆さん――郷里の方の家に近く住んで、よくお母さんの許へ出入した人――のことなぞまで思出した。あのお霜婆さんが国の方の話を持って、一度以前の田辺の家へ訪ねて来た時のことを思出した。御蔭で国への土産話が出来たと言って、自分を前に置いて年とった女らしく掻口説いたことを思出した。「あれほどワヤクな捨様でも、東京へ出て修業すればこれだ。まあ、俺の履物まで直して下すったそうな――」と別れ際に言って、あの婆さんがホロリと涙を落したことを思出した。
亡くなったお父さんのことをも思出した。自分に逢うことを楽みにして、一度お父さんが上京した日のことを思出した。あの銀座の土蔵造の家の奥二階に、お父さんが田舎から着て来た白い毛布や天鵞絨で造った大きな旅の袋を見つけたことを思出した。国に居る頃のお父さんはまだ昔風に髪を束ね、それを紫の紐で結んで後の方へ垂れているような人であったが、その旅で名古屋へ来て始めて散髪に成った話なぞを聞かされたことを思出した。「あれをああと、これをこうと――」とそれを口癖のように言って、お父さんがよく自分自身の考えを纏めようとしていたことを思出した。