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さくらのみのじゅくするとき

桜の実の熟する時

島崎 藤村

「文章世界」1913(大正2)年1~2月、1914(大正3)年5月~1918(大正7)年6月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 111,569 字 · 222 页

青空文庫

青木に別れた後の捨吉はそのまま菅とも別れて直ぐに家の方へ帰りたくなかった。長い品川の通りを札の辻の方へ歩いて、二人して何か物食う場所を探した。長いこと沈鬱な心境を辿り、懊悩と煩悶との月日を送って来た捨吉には、齷齪とした自分を嘲り笑いたいような心が起って来た。厳粛な宗教生活を送った人達の生涯を慕う傍から、自分の内部に萌して来る狂じみたものを、自ら恣にしようとしてしかもそれが出来ずに苦しんでいるようなものをどうすることも出来ないような心が起って来た。何かこう酒の香気でも嗅いで見たら、という心さえ起って来た。この心は捨吉を驚かした。彼はまだ一度も酒というものを飲んで見たことが無かったから。

こうした初心なものの食慾を満すような場処は、探すに造作もなかった。ある蕎麦屋で事が足りた。

「菅君、お酒を一つ誂えて見ようかと思うんだが、賛成しないか」

腰掛けても坐っても飲食することの出来る気楽な部屋の片隅に、捨吉は友達と差向いに座を占めて言った。

「お銚子をつけますか」

と、姉さんがそこへ来て訊いた。

「君、二人で一本なんて、そんなに飲めるかい」

と言って菅は笑った。