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さくらのみのじゅくするとき

桜の実の熟する時

島崎 藤村

「文章世界」1913(大正2)年1~2月、1914(大正3)年5月~1918(大正7)年6月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 111,569 字 · 222 页

青空文庫

眠りがたい夜が続いた。どうかすると二晩も三晩も全く眠らなかった。例の小座敷に置いた机の上には、生徒から預った作文が載せてあった。その中には最近に勝子の書いた文章も入っていた。読んで見ると面白くもおかしくもない文章が何事も知らない鳩のような胸から唯やすらかに流れて来ている。捨吉はその作文が真赤になるほど朱で直して見て、独りで黙っている心を耐えた。

俄かに友達同志の交遊が拡がって来た。青木からの葉書で、岡見を紹介された喜びを述べて、同君を待受けるのは近頃愉快な事の一つだと、捨吉のところへ言って寄した。岡見が芝の公園に青木を訪ねる頃には、それと相前後して捨吉は本船町に市川を訪ねて行った。

荒布橋から江戸橋へかけて、隅田川に通ずる掘割の水があだかも荷船の碇泊処の趣を成している一区劃。そこは捨吉が高輪の学校時代の記憶から引離して考えられないほど旧い馴染の場処だ。よく捨吉は田辺の小父さんの家から旧の学窓の方へ歩いて帰ろうとして、そこまで来ると必と足を休めたものだ。何時眺めて通っても飽きることを知らなかったあのごちゃごちゃと入組んだ一区劃から程遠からぬ町の中に、市川の家があった。