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さくらのみのじゅくするとき

桜の実の熟する時

島崎 藤村

「文章世界」1913(大正2)年1~2月、1914(大正3)年5月~1918(大正7)年6月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 111,569 字 · 222 页

青空文庫

「市川君はこんなところに住んでるのか」

それを思ったばかりでも、下町育ちの捨吉には特別の懐しみがあった。

「仙ちゃんのお客さま」

という声が店先でして、やがて捨吉を案内してくれる小僧がある。薬種を並べた店の横手から細い路地について奥の方へ入って行くと、母屋の奥座敷から勝手口までが見える。捨吉はその路地のところで市川の姉さんらしい人の挨拶するのに逢った。母屋から離れた路地の突当りの裏二階に市川の勉強部屋があった。

岡見を通し、書いたものを通し、既に相識の間柄のような市川は極く打解けた調子で捨吉を迎えてくれた。この人は捨吉の周囲にある友達の誰よりも若かった。町のひびきも聞えないほど奥まった二階の部屋で、広い額の何より先ず眼につく市川の前に坐って見た時は、捨吉は初めて逢う人のような気もしなかった。

「仙ちゃん、お茶を進げて下さい」

と声がして、梯子段のところへ茶道具を運んで来る家の人がある。市川はそれを受取りに行って、やがて机の側で捨吉に茶を勧めてくれた。壁には黒い釦のついた高等学校の制服も懸けてあった。すべてが捨吉に取って気が置けなかった。

若いもの同志は何時の間にか互いに話したいと思うような話頭に触れて行った。