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さくらのみのじゅくするとき
桜の実の熟する時
島崎 藤村
「文章世界」1913(大正2)年1~2月、1914(大正3)年5月~1918(大正7)年6月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 111,569 字 · 222 页
こんなことを言って笑って、切取った手拭は丁寧に畳んで捨吉の前に置いた。細君は出入の者にそれを配るばかりでなく、捨吉にまで持たしてやるということを得意の一つとした。
午睡から覚めた真勢さんが顔を洗いに来た頃、捨吉も井戸端に出てこの大勝の帳場と一緒に成った。真勢さんは田辺の小父さんの遠い親類つづきに当っていた。あの御店へ通うように成ったのも小父さんの世話であった。午睡で皺になった着物にも頓着せず、素朴で、関わないその容子は大店の帳場に坐る人とは見えなかった。
しかし捨吉は田辺の家へ出入する多くの人の中で、この真勢さんを好いていた。
「真勢さん、僕は明日から夏期学校の方へ出掛けます」
と話して聞かせた。
「ホ、夏期学校へ」
と真勢さんは汗染みた手拭で顔を拭きながら言った。
夏期学校と聞いて真勢さんのように正直そうな眼を円くする人は、捨吉の身のまわりには他に無かった。何故というに、その講演は基督教主義で催さるるのであったから。そして、真勢さんは基督教信者の一人であったから。こうした十年一日のような信仰に生きて来た人を大勝の帳場なぞに見つけるということすら、捨吉にはめずらしかった。