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さくらのみのじゅくするとき

桜の実の熟する時

島崎 藤村

「文章世界」1913(大正2)年1~2月、1914(大正3)年5月~1918(大正7)年6月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 111,569 字 · 222 页

青空文庫

玉子というのがその人の名だ。玉子は繁子に無いものを補うような、何処か邪気ないところを有つ人だった。彼はこの若い年長の婦人から自分の才能を褒められたことを思出した。「何卒、これから御手紙を寄して下さい」と言われたことを思出した。他に二人の婦人の連もあって、玉子と共に品川の海へ船を浮べた時のことを思出した。その帰途に玉子と一緒に二人乗の俥に載せられたことを思出した。その俥の上でこの御殿山の通路を夢のように揺られて行ったことを思出した。玉子は間もなく学校を辞めて神戸の方へ帰って行ったから、この婦人との親しみは半歳とは続かなかったが、神戸から一二度手紙を貰ったことを思出した。その手紙の中には高輪時代の楽しかったことを追想し、一緒に品川の海へ出て遊んだ時のことを追想して、女の人から初めて聞く甘い私語のような言葉の書いてあったことを思出した。

何時の間にか捨吉は奥平の邸の内へ来ていた。その辺は勝手を知った彼がよく歩き廻りに来るところだ。道は平坦に成って樹木の間を何処ということなく歩かれる。黒ずんだ荒い幹肌の梅の樹が行く先に立ちはだかっている。うんと手に力を入れたような枝の上の方には細い枝が重なり合って、茂った葉蔭は暗いほど憂鬱だ。