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もみノきはのこった

樅ノ木は残った

山本 周五郎

03 第三部

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 167,285 字 · 330 页

青空文庫

「私は一般の例を云ったまでだ」

「貴方自身はどうです」と七十郎はたたみかけた、「他人の生死は痛くも痒くもない、どんなにでも達観したようなことが云えますよ、だが、そんなものは山寺の小坊主の寝言だ、死ということを知らない貴方が、死について悟ったようなことを云ったって、聞いているほうにはただ可笑しいばかりです」

「では一つだけ云おう」と甲斐は微笑しながら云った、「私はおとついの晩、品川の下屋敷で、刺客に襲われた」

七十郎は眼をそばめた。なにを云うかといったふうに、眼をそばめて甲斐を見、甲斐は微笑したまま続けた。

「月見の宴に召されて、お盃を頂いたあとのことだ」

「貴方に、刺客ですって」

「望岳亭からさがる途中、暗闇からいきなり、抜き討ちをしかけられた」

七十郎は唾をのんだ。

「幸い命は助かったが、ほんの一歩ちがえば死ぬところだった、嘘も隠しもない、あとでみると袖と袴が切れていた」

「なに者です、それはなに者ですか」

「知らない」と甲斐は首を振った、「私は顔もよく見なかったし、名も訊かずに放してやった、なぜだかわかるか、わからなければ云おうか」

七十郎は聞きましょうと、しゃがれたような声で云った。