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もみノきはのこった
樅ノ木は残った
山本 周五郎
03 第三部
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 167,285 字 · 330 页
まもなく、隣り座敷でおみやの声がし始め、新八は盃を持ったまま、じっとその声を聞きすました。男の声は低く、はじめは殆んど言葉が聞きわけられなかった。おみやは酔っていた。襖を隔てて聞くと、酔っていることがはっきりわかった。
おみやの口ぶりはやわらかく、誘惑的で、嬌めいていた。挨拶をするとすぐに、なにか取り出して男の前に置いたらしい、男が、えっ、と驚きの声をあげた。
「ええそうよ」とおみやが、念を押すように云った、「それがお頼みの証書、酒井さまと兵部さまの取り交わした証書です、あけて、よく見てごらんなさいな」
男はなにかあけてみているようだったが、新八はおみやの言葉を聞いて、さっと顔をひき緊め、窓に凭れれていた躯を、起こした。
――雅楽頭と一ノ関の取り交わした証書。
内容はむろんわからないが、雅楽頭と兵部の名は、すぐに万治の騒動を思いださせ、兄の暗殺されたことを思いださせた。伊達家六十万石をめぐって、雅楽頭と兵部がなにごとか企んでいる、ということは、柿崎道場にいるあいだに、六郎兵衛の云うことやすることでほぼわかったし、そのために兄も暗殺されたらしい、ということも、おぼろげながら推察することができた。