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なおこ

菜穂子

堀 辰雄

楡の家 第一部「物語の女」山本書店、1934(昭和9)年11月<br> 楡の家 第二部「文学界」1941(昭和16)年9月号<br> 菜穂子「中央公論」1941(昭和16)年3月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 88,758 字 · 173 页

青空文庫

三

「――が、田舎へ行かれるのはいいなあ。」

所長もそれに釣り込まれたような笑顔を見せた。

「今の為事が為上がり次第行きたまえ」

「ええ、大抵そうさせて貰います。実はもうそんな事は自分には許されないのかと思っていたのです……。」

明はそう答えながら、さっき思い切って所長に此事務所をやめさせて下さいと云い出しかけて、それを途中で止めてしまった自分の事を考えた。今の為事をやめてしまって、さてその自分にすぐ新しい人生を踏み直す気力があるかどうか自分自身にも分かっていない事に気づくと、こんどは所長の勧告に従って、暫く何処かへ行って養生して来よう、そうしたら自分の考えも変るだろうと、咄嗟に思いついたのだった。

明は一人になると、又沈欝な顔つきになって、人の好さそうな所長が彼の傍を去ってゆく後姿を、何か感謝に充ちた目で眺めていた。

三

三村菜穂子が結婚したのは、今から三年前の冬、彼女の二十五のときだった。

結婚した相手の男、黒川圭介は、彼女より十も年上で、高商出身の、或商事会社に勤務している、世間並に出来上った男だった。圭介は長いこと独身で、もう十年も後家を立て通した母と二人きりで、大森の或坂の上にある、元銀行家だった父の遺して行った古い屋敷に地味に暮らしていた。