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むし

虫

江戸川 乱歩

一~四「改造 第十一卷第六號 六月號」改造社、1929(昭和4)年6月1日<br>五~十二「改造 第十一卷第七號 七月號」改造社、1929(昭和4)年7月1日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 44,053 字 · 86 页

青空文庫

また、華やかな社交に慣れた彼にとっては、柾木の陰気な書斎や、柾木の人間そのものが、こよなき休息所であり、オアシスでもあったのだ。

その池内光太郎が、ある日、柾木の家の十畳の客間で、(柾木はこの唯一の友達をさえ、土蔵の中へ入れなかった)柾木を相手に、彼の華やかな生活の一断面を吹聴している内に、ふと次の様なことを云い出したのである。

「僕は最近、木下芙蓉って云う女優と近づきになったがね。一寸美しい女なんだよ」彼はそこで一種の微笑を浮べて、柾木の顔を見た。それはここに云う「近づき」とは、文字のままの「近づき」でないことを意味するものであった。「まあ聞き給え、この話は君にとっても一寸興味があり相なんだから。と云うのは、その木下芙蓉の本名が木下文子なんだ。君、思い出さないかい。ホラ、小学校時代僕等がよくいたずらをした、あの美しい優等生の女の子さ。たしか、僕達より三年ばかり下の級だったが」

そこまで聞くと、柾木愛造は、ハッとして、俄かに顔がほてって来るのを感じた。流石に彼とても、二十七歳の今日では、久しく忘れていた赤面であったが、ああ赤面しているなと思うと、丁度子供の時分、涙を隠そうとすればする程、一層涙ぐんで来たのと同じに、それを意識する程、益々目の下が熱くなってくるのをどうすることも出来なかった。