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むし

虫

江戸川 乱歩

一~四「改造 第十一卷第六號 六月號」改造社、1929(昭和4)年6月1日<br>五~十二「改造 第十一卷第七號 七月號」改造社、1929(昭和4)年7月1日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 44,053 字 · 86 页

青空文庫

いた。その当時、木下文子は、彼にとって神様以下のものではなかったのである。

その後文子の方でもどこかへ引越して行ったし、彼の方でも学校が変ったので、いつか、忘れるともなく忘れてしまっていたのだが、今池内光太郎から、木下文子の現在を聞かされて、相手は少しも知らぬ事柄ではあったけれど、そのような昔の恥かしい思出に、彼は思わず赤面してしまったのであった。

雑沓中の孤独といった気持の好きな、柾木の様な種類の厭人病者は、浅草公園の群集と同じに汽車や電車の中の群集、劇場の群集などを、寧ろ好むものであったから、彼は芝居のことも世間並には心得ていたが、木下芙蓉と云えば、以前は影の薄い場末の女優でしかなかったのが、最近ある人気俳優の新劇の一座に加わってから、グッと売出して、立女形ではないけれど、顔と身体の圧倒的な美しさが、特殊の人気を呼んで、一座の女優中でも、二番目ぐらいには羽振りのよい名前になっていた。柾木は、かけ違って、まだ彼女の舞台を見てはいなかったが、彼女についてこの程度の智識は持っていた。

その人気女優が、昔々の幼い恋の相手であったと分ると、厭人病者の彼も、少しばかり浮々して、彼女が懐しいものに思われて来るのであった。