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むし

虫

江戸川 乱歩

一~四「改造 第十一卷第六號 六月號」改造社、1929(昭和4)年6月1日<br>五~十二「改造 第十一卷第七號 七月號」改造社、1929(昭和4)年7月1日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 44,053 字 · 86 页

青空文庫

そして、やっと車が動く様になった時、彼は始めて気附いた様に「ハテ、俺は何をしていたのだっけ」と暫く考えていたが、「アアそうだ。俺は朝飯をたべていないのだ。婆やが待っているだろう。早く帰らなければ」と気がついた。彼は側に立止って彼の方を見ていた小僧さんに道を訊いて、家の方角へと車を走らせた。三十分もかかって、やっと吾妻橋へ出たが、その時また、彼自身のやっていることに不審を抱いた。「御飯」のことなどとっくに忘れていたので、車を徐行させて、ボンヤリ考え込まなければならなかった。だが、今度は意外にも、天啓の様にすばらしい考えがひらめいた。「チェッ、俺はさっきから、なぜそこへ気がつかなかったろう」彼は腹立たしげに呟いて、併し晴々した表情になって、車の方向を変えた。行先は本郷の大学病院わきの、ある医療器械店であった。

白く塗った鉄製の棚だとか、チカチカ光る銀色の器械だとか、皮を剥いた赤や青の毒々しい人体模型だとか、薄気味悪い品物で埋まっている、広い店の前で、彼は暫く躊躇していたが、やがて影法師みたいにフラフラとそこへ這入って行くと、一人の若い店員を捉えて、何の前置きもなく、いきなりこんなことを云った。