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こくしかんさつじんじけん
黒死館殺人事件
小栗 虫太郎
「新青年」博文館、1934(昭和9)年4月号~12月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 296,741 字 · 584 页
何故なら、セレナ夫人が『樺の森』と云っても微動さえしなかったその手が、続いて僕がその次句で、されど彼夢みぬ――と云って、その男という意味を洩らすと、不思議な事には、その不安定な無名指に異様な顫動が起って、クリヴォフ夫人は俄然燥ぎだしたような態度に変ったからだ。恐らく、そこに現われている幾らかの矛盾撞着は、とうてい法則では律することの出来ぬほど、転倒したものだったに相違ない。だいたい、緊張から解放された後でなくては、どうして、当時の昂奮が心の外へ現われなかったのだろうか」とそこでちょっと言葉を切って窓の掛金をはずし、一杯に罩もった烟が、揺ぎ流れ出てゆくと後を続けた。「ところが、常人と異常神経の所有者とでは、末梢神経に現われる心理表出が、全然転倒している場合がある。例えば、ヒステリーの発作中そのまま放任しておく場合には、患者の手足は、勝手気儘な方向に動いているけれども、いったんそのどこかに注意を向けさせると、その部分の運動がピタリと停止してしまうのだ。つまり、クリヴォフ夫人に現われたものは、その反対の場合であって、たぶんあの女は、心の戦きを挙動に現わすまいと努めていたことだろう。