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わすれのこりのき

忘れ残りの記

吉川 英治

吉川英治『忘れ残りの記』。同一底本的分册已合并为一书。收入:忘れ残りの記、年譜。

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 193,050 字 · 383 页

青空文庫

と云った。父もまた、おなじような意味の事を、ぼくへ云った。だがぼくには、何かちっとも得心がいかなかった。唯、家の景色がガラリと変った事やら、世間の風がじかに家庭へ入って来る感じなどで、わけもなく物珍しい好奇心に唆られていたのであった。

赤門前の“みどり屋雑貨店”は、こんな風に父が始めたものだった。父は、その頃の金で三千円を投じたといっていた。いわゆる士族の商法だった。松影町で松屋といっていた内外雑貨問屋がある。仕入れは一切、松屋まかせであったという。

いよいよ開店の前日などは、松屋の番頭小僧が七、八名もやって来て、夜通しタスキがけで商品の陳列やら正札附けにかかり、松屋の支店みたいな恰好で働いていた。そこへ祝い物が届くやら、来客や手伝い達に酒を振舞うやらで、徹夜のお祭り騒ぎであった。

そしてさて、福引附きの売出しを始めてみると、その三日間だけは、お客も物珍しそうに、店の前の小橋を渡って買いに入って来、店番には、松屋の番頭が三日だけ坐ってくれたので、母もぼくらもただ奥の茶の間から店の景気を覗きあって、

「そら、またお客さんが入って来たよ」とか、「あれも売れた、これも売れた」