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わすれのこりのき

忘れ残りの記

吉川 英治

吉川英治『忘れ残りの記』。同一底本的分册已合并为一书。收入:忘れ残りの記、年譜。

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 193,050 字 · 383 页

青空文庫

母はしきりに「勿体ない」といって渋ったが、「どうも書体の坐りがわるい、朝晩、気になるから取更えろ」といって父はきかなかった。まったく落語の“士族の商法”通りであった。自然、カゴ虎でも、松屋でも、また出入りの人々でも、その人たちの世間的な眼から見たぼくらの家庭というものは、よほど浮々していて、滑稽に見えていたことだろう。いまは得意の絶頂だが、あぶないものだといったような世間の蔭口もささやかれていたにちがいない。

ぼくが学校から帰って来ると、店には店番もいないのに、奥の茶の間では、三味線の音やら賑やかな笑い声がしていることがよくあった。

妹たちのために、一週間に何度か、踊りのお師匠さんが来る。それをすすめたのは、どうも義兄の政広らしい。義兄は小田原の花柳界で育ったので、踊り、長唄、芸事なら何によれ上手であったし、また好きであった。もちろん父の承諾をえた上だろうが、母も父の放埒な行状や家事の行く末にクヨクヨするのを忘れて、せめてそんな事にでも気を紛らわせようと努めていたふうがある。

踊りのお師匠さんはソレ者上がりらしいきれいなお婆さんだった。紹介者はすぐ近所に住んでいた近藤夫人である。