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わすれのこりのき
忘れ残りの記
吉川 英治
吉川英治『忘れ残りの記』。同一底本的分册已合并为一书。收入:忘れ残りの記、年譜。
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 193,050 字 · 383 页
いやそうとばかりはいえない。あの中の近松物、西鶴物など、その頃は殆ど初版だったから、総てフセ字なしであった。フセ字なしの“春色梅暦”をぼくは十二、三歳で読み耽っていたわけである。太平記、西遊記のような物でも、幾晩かで読み終ってしまう。「寝ないか。まだ起きているのか」と父に叱られ叱られ、寝床の中で眼を赤くして読んだ。
梅暦は、ついに父に見つかって、風呂の焚き口へ抛り込まれ、眼の前でタキツケにされてしまった。涙がにじんだ。米八の白い脛だの仇吉の艶な姿を火の中に見ていたのである。
何しろ家庭も派手すぎていたし、ぼくの素質も素質だし、ここ数年の少年期が好ましい温床にあったとはどうも思い難い。しかし、父も母も、決して子の教育を放任していたわけではなかった。日課はもちろん、朝夕の礼儀、言語、服装、挙止、遊戯にわたるまで、厳格さは以前どおりである。教育方針の鉄則だったのだろう、人手もあるのに、父はわざと子供らに、風呂場の水汲みをやらせたり、遠くの使いに歩かせたり、時々、唐突な無理を命じることも前とちっとも変りはない。
遊行坂時代に初めた漢文の夜学通いも、清水町へ移ってからは、横浜の端れから端れみたいに遠くになったので、一週一度土曜日だけになっていた。