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わすれのこりのき

忘れ残りの記

吉川 英治

吉川英治『忘れ残りの記』。同一底本的分册已合并为一书。收入:忘れ残りの記、年譜。

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 193,050 字 · 383 页

青空文庫

――といっても、ぼくは自分の少年期をどだいにしての事なので、一般の家庭やほかの子供には共通しないことかもしれない。けれど、「子供だから」という通念と、大人の油断は、どこの家にもありがちのようであるから、余りお上品なはなしではないけれど、愚を承知しつつ書きとめておく。

客は、どこかのお茶屋の女将にちがいない。お中元やらお歳暮に来たのやら、季節もはっきりは覚えてはいない。それなのに、ぼくはその女客がお茶屋の人だと分っていた。父が遊びざかりの時代で、幾日も家に帰らないでいた父が、酒くさい姿を、妓たちに囲まれながら、しばしば家へ送られて来たりした。その中で見た婦人だったからであろう。

土産物など横において、その女将がぼくの母へ何か喋りぬいていた。もちろん父の留守にである。すると女将のことばのうちにお琴という名が度々出た。お琴というのは、父がよそに囲っていた婦人である。女将はさんざんその女のざんそを母へ告げていたようであったが、ふと妙に声をおとして「――それにまた奥さま、あのひとときたら、関内(花柳界)に出ていた頃から、とてもお床がよかったんですって。何しろもう泣くんだっていうじゃござんせんか」