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わすれのこりのき

忘れ残りの記

吉川 英治

吉川英治『忘れ残りの記』。同一底本的分册已合并为一书。收入:忘れ残りの記、年譜。

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 193,050 字 · 383 页

青空文庫

いつも、私の方がこれからと思っているのに、たくの方ではもうすんでしまっているんですもの」と云うのが聞えた。そして酒の上の父が、何かまた大胆な閨房の秘語を飛ばしたとみえて、つづいて母が「ま。およしなさい。いくら御冗談でも、よその奥さんに」と、すこし不機嫌に云ったのが、何の意味か、ぼくにはおぼろに分っていた。

ぼくは客間に居たのではない。遠くのぼくの机にまでそれが聞えていたのである。前のお茶屋の女将のばあいといい、このときの片語も思い出せる程なのは、そのさい少年の脳裡によほど、つよく響いたからであろう。何しても無影響ではありえなかった。

もちろんそれは理解というような事とは違う。さきにも云ったように、理解以前のものにすぎない。

けれど、その面の児童の危険期ともいえる問題は、どうも理解以前にあるもののようである。ぼくを例にしていえば、ぼくはもうその頃、誰にも内緒で「梅暦」や近松もの西鶴ものなどは読んでいたし、特に「竹田出雲浄瑠璃集」のようなまる本でも自由に手に出来た時代であるから、それが、文学上の何であるかなどは夢中でただ耽読していたものだった。だから茶屋の女将や、富樫夫人の云った会話の端も、それが大人のどんな意味の隠語であるかぐらいは、薄々ながら直感してしまうのであった。