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わすれのこりのき

忘れ残りの記

吉川 英治

吉川英治『忘れ残りの記』。同一底本的分册已合并为一书。收入:忘れ残りの記、年譜。

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 193,050 字 · 383 页

青空文庫

当時の号外屋が、祭礼の若衆姿みたいな向う鉢巻で、腰のまわりに沢山な鈴を下げ、まるで半狂乱になって戦捷を呶鳴りつつ駈ける姿を、ぼくは店の障子戸越しに、見た程度であった。花火の爆音が一日中聞えていても、港が灯と万歳に沸き返っている晩でも、じっと徒弟机に屈まって、家の事やら母の顔などしか頭になかったものだろう。

ただ開戦当初には、町内町内の楽隊と一しょに、戦死者の葬送について行ったり、出征者の見送りに交じった覚えなどが幾らかある。そのほかは当時の軍国調にも個々の悲喜にも判っきりした影響は殆ど何も感じていない。いやそう云っては、同年代の人々とぼくの経歴感とが余りにも食い違うかもわからない。ぼくの場合は境遇に依るものだ。ぼくの通った、明治三十七、八年という歴史上でも重大な年は、ぼくに取ってのみ特異な境遇ではあった。だから世間の日の丸も花火も楽隊も、この少年の頭には、沁み入る余地がなかったものと思われる。――家の没落、義兄の失踪、父の入獄、職さがし、妹たちの離散、父の吐血、母の明け暮れない貧乏苦労、など、そんな周囲ばかりを、ここ二年、ぼくは眼にして来たのである。