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わすれのこりのき

忘れ残りの記

吉川 英治

吉川英治『忘れ残りの記』。同一底本的分册已合并为一书。收入:忘れ残りの記、年譜。

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 193,050 字 · 383 页

青空文庫

堺枯川を大いにみとめていた。柳樽改革をとなえ、新川柳を興し、氏を川柳へ赴かせたものの一因はそこにもあった事かもしれない。「長州人で多少、文化のわかるものは、ぼくと松林桂月くらいなものだ」と云ったりした。画壇の方にも交友は広かった。その桂月氏とぼくとが、以後交友をつづけたのも、剣花坊氏のお宅からであったが、そのほか氏の紹介で辱知をえた人々も少なくない。松居松葉、笹川臨風、小山内薫、水野葉舟、木下杢太郎、与謝野寛、倉田百三、ちょっと思い出しきれない程である。

忘れ難いのは、初めてお訪ねしたときの事だ。ぼくは鼻緒の切れかかった汚い下駄をはいていた。奥さんの信子女史が、鰹節の釜飯をたいて御馳走してくれた。その味を忘れていない。又、帰ろうと思って下駄を穿きかけたら、ピシャンコな泥下駄が、きれいに拭かれて、切れかけていた鼻緒まで、ちゃんとスゲ代えられてあった。

その井上信子女史は、今も御健在らしい。らしいと云っては、御無沙汰の罪、申しわけない。だが終戦後、高田保が“ぶらりひょうたん”の一文の中に、信子女史の近作一句挙げて――これが何と、八十にちかい老女性の感覚であろうかと、賞めていたことがある。