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わすれのこりのき
忘れ残りの記
吉川 英治
吉川英治『忘れ残りの記』。同一底本的分册已合并为一书。收入:忘れ残りの記、年譜。
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 193,050 字 · 383 页
アブ公とはそこで友達になったのである。
家は、ふつうの借家で、八畳と四畳半ぐらいな部屋の襖を外し、オルガンだけが、日曜学校と云えば云える風景だった。そこの主人夫妻は、元よりクリスチャンだろうが、べつに宣教師ではなかったようだ。ただ子供集めが好きで日曜行事としていたのであろう。横浜にはそんな家庭がいくらもあったものである。そしてここには、お下げ髪の美しい娘がいた。ぼくよりも年上だが、ぼくはその少女が好きであった。讃美歌の合唱の時、少女の唇元を見ながら共に歌っていると何ともいえない愉しさにくるまれた。
家は近いので、日曜でない日でも、ぼくは彼女に近づくことが出来た。ところが、ある日の午後、彼女を誘うため、その家の裏庭の縁側から、少女の名を呼びかけた。家の中には、誰も見えない。留守なのか、と帰りかけた。すると奥で擽られたようにクックッ笑う声がするので、もう一度戻ってみると、オルガンの蔭で、少女とアブ公が、絡み合って寝ていた。少女は顔を埋めていたが、お下げ髪の頭越しにアブ公の顔がこっちを見た。
ぼくは奇妙な気もちに行き迷ぐれて帰った。ショックというほど強い嫉妬でもなかったし、少女とアブ公の戯れも、大人の行為のそれとは違うものであったろう。