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わすれのこりのき
忘れ残りの記
吉川 英治
吉川英治『忘れ残りの記』。同一底本的分册已合并为一书。收入:忘れ残りの記、年譜。
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 193,050 字 · 383 页
幼時の記憶で何かといって、この豆汽車が走ったのを見た時くらいびっくりしたことはない。
母の義兄の斎藤恒太郎は、語学者としては、明治の三斎藤といわれた一人だそうで、学習院教授をしていた傍ら、宮家の教育掛りをも勤めていた関係上、北白川宮の邸内に居住していた。
その斎藤家へ嫁いだ母の姉は、豊子といった。豊子は三人の子を遺して二、三年前にもう亡くなっていたのであるが、ぼくの母は、その姉の愛情によほど忘れえないものを抱いていたらしい。
ぼくなど全然その伯母を見ていないのだが、面ざしや輪郭まで、まざまざと会った人のような錯覚を今でも瞼にもっている。それは母が老年にいたるまで、そして、貧苦のどん底にあった頃でも、姉の豊子の写真だけは、お守りのように大事に持っていて、子供のぼくらへその姉の優しさや美しい情操を何かにつけて話して聞かせたせいであろう。そしてまた母は、義兄の斎藤恒太郎をも心から尊敬していた。姉亡き後も音信をつづけ、ただ一人の親身な人と頼っていたふうであった。
ただ不幸なことには、ぼくの父と斎藤とは、肌が合わず、生涯、犬猿もただならぬといっていい仲であった。