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わすれのこりのき
忘れ残りの記
吉川 英治
吉川英治『忘れ残りの記』。同一底本的分册已合并为一书。收入:忘れ残りの記、年譜。
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 193,050 字 · 383 页
五石十人扶持は、ぼくにとっても初耳だった。少年時代から何かにつけ小田原藩とは聞かされていたが、父の口ぐせは「さむらいの子は」であった。士族ということばがまだかすかに余命をひいていた頃である。だからぼくは、藩士というからには、百石や二百石取りぐらいではあったのだろうと、成人の後まで独りぎめに思いこんでいたものである。おそらく当日の聴衆たちもそうだったのではあるまいか。いくら小藩でも五石十人扶持は最下士だ、いわば足軽に毛がはえたようなものだったろう。それにしてもテレる理由はなにもないが「吉川英治氏を郷土に迎える会」が余り派手で盛会過ぎたからいけなかった。根府川関所で六尺棒を持って案山子みたいに立っていた先祖とぼくとを見くらべたら、何か、おかしくなってしまったのもむりはない。あとでぼくが壇に立つと聴衆はまた笑い直した。けれど笑われたあとは一ぺんに気らくになり、それだけ親しみぶかく話もでき、ひどく愉快な会となって終った。
祖父の銀左衛門という人をぼくは憶えていない。ぼくが赤ン坊のころ亡くなったということだ。母のはなしには、まっ白なあご鬚をたくわえ、嫁にはやさしいもの静かな老人で、小柄ではあるが若いときは美男だったろうと思われるような人柄だったそうである。