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わすれのこりのき

忘れ残りの記

吉川 英治

吉川英治『忘れ残りの記』。同一底本的分册已合并为一书。收入:忘れ残りの記、年譜。

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 193,050 字 · 383 页

青空文庫

けれど、その二少女を対象としての幼い恋とか感傷などは、何一つ後々には残っていない。上野から浅草へ廻って、宇治ノ里の小座敷に行儀よく並ばせられて、お昼飯を食べたぐらいなものである。ところが、へんな記憶がつよく印象づけられていた。附添いの中にいた加藤さんのお母さんに、鉄道馬車の中で膝に抱かれた事なのである。

あの時代の浅草、両国、京橋、銀座――を、トコトコと馬糞だらけにして走っていた鉄道馬車なる文明の乗物を、今でも鮮らかに眼に描くことができるのは、加藤さんのお母さんのおかげかもしれない。その婦人はもちろん三十をすぎていたに違いないが、何か、少年の眼にも優れた美人型に見えたのである。単に美人であるばかりでなく、横浜風の盛装か、髪も指も帯留も宝石に燦めき、そっと動いても周りの者へ体温のある香料の匂いがぷんと揺れてくる藤の花みたいな印象をいまも覚えている。

人力車でゆく青山から両国駅までの間も、寝飽きるくらい長かったが、浅草から銀座、新橋間の鉄道馬車もずいぶん乗りでがあったように思う。きっと途中で乗客が混み合ってきた為であろう。加藤さんのお母さんが、だまってぼくの体を膝に乗せた。