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おうぎの

扇野

山本 周五郎

「面白倶楽部」大日本雄辯會講談社、1954(昭和29)年5月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 33,727 字 · 67 页

青空文庫

「当分来ない約束だったんだ」

「あんなこと仰しゃって」おさとは、なにもかも知っているというふうに笑った、「――昨日もおとついも来て、いらっしゃらないかしらってずっと待ってらっしゃいましたわ、今日も帰るときに、もしいらしったらすぐ知らせてくれ、できたらぬけてでも来るからって、諄いほど念を押していましたわ」

「もういいよ、酒を持って来てくれ」

栄三郎は団扇を取って窓のほうへ寄った。

樋の山へいった日のことであるが、桑名屋へ戻って飲みながら、おつるのほうから卒然と「暫く逢うのはよそう」と云いだした。栄三郎も頷いた。相手はにんきしょうばいであるし、二人で山歩きなどしているところをみつかったのだから、暫くほとぼりを冷ますほうがいい。そう思って、当分は来ないからと約束をしたのである。幸い本下絵にかかったので、どうやら気は紛れていたようなものの、逢いにゆきたいという気持を抑えることは、相当な努力であった。

「――自分で云いだしたのに」

そう呟きながら、栄三郎は窓に倚ったまま、ふとべそをかくような顔つきをした。その南側の窓の外もすぐ板塀で、板塀の向うは隣りの家の裏とくっついており、厨で炊事でもしているのか、板塀に沿ってしきりに煙がながれていた。