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おうぎの

扇野

山本 周五郎

「面白倶楽部」大日本雄辯會講談社、1954(昭和29)年5月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 33,727 字 · 67 页

青空文庫

近頃では旦那があり子供もあると云っているが、そんなことは誰も気にしないし、却ってひいき客が殖えるばかりのようであった。

こういう事情はみな、おさとが訪ねて来ていっしょに桑名屋へゆく途中、彼女の口から聞いたのであるが、栄三郎はおつるにはなにも知らないふうをし、やはり旦那があり子供があるつもりにしていた。

絵は順調に進んでいった。栄三郎の一日おきの桑名屋がよいも、おつるが忍んで来ることにも変りはなかった。こうして七月、八月と過ぎ、海に秋の波が立つようになった。栄三郎がそれをはっきり覚えているのは、その夜(桑名屋へ)でかけようとしたとき、おけいが珍しく離れ座敷へやって来て、今夜は寒くなりそうだから着てゆくようにと、仕立ておろしの羽折をそこへ出した。

「ずいぶん波の音が聞えるでしょ」とそのときおけいが云った、「こんなふうに波の音が聞えるようになるともうすっかり秋で、夜が更けると寒くなるんですのよ」

栄三郎は眩しそうな顔つきで、おけいの着せかける羽折に袖をとおしながら、その波の音を聞いた。彼はおけいがなにか云うつもりだなと思った。仕事のあいだは誰もこの座敷へは入らない約束で、まえにも記したとおり、食事を運んで来るおけいも長四帖から引返していた。