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さくらのみのじゅくするとき
桜の実の熟する時
島崎 藤村
「文章世界」1913(大正2)年1~2月、1914(大正3)年5月~1918(大正7)年6月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 111,569 字 · 222 页
そこには庭伝いに往来することの出来るいくつかの離れた座敷もあった。貧しくて若い捨吉は、あだかも古巣を離れた小鳥のように恩人の家から離れて来て、初めてそこに小さいながらも自分の巣を見つけた。彼が自分を延ばして行くということの為には、先ず糊口から考えて掛らねば成らなかった。そのためには僅かな学問を資本にして、多くの他の青年がまだ親がかりで専心に勉強しているような年頃から、田辺のお婆さんの言う「女の子」を教えに行くような辛い思を忍ばなければ成らなかった。
しかし沈んだ心の底に燃える学芸の愛慕は捨吉をしてこうした一切のことを忘れさせた。彼は自分の力に出来るだけのことをして、その傍ら独りで学ぼうと志した。そのためには年長の生徒でも何でも畏れず臆せず教えようとした。教える相手の生徒がいずれも若い女であるとは言え、それが何だ、と彼は思った。彼は何物にも煩わされることなしに、踏出した一筋の細道を辿り進もうと願っていた。
牛込の下宿から麹町の学校までは、歩いて通うに丁度好いほどの距離にあった。崩壊された見付の跡らしい古い石垣に添うて、濠の土手の上に登ると、芝草の間に長く続いた小径が見出される。