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さくらのみのじゅくするとき
桜の実の熟する時
島崎 藤村
「文章世界」1913(大正2)年1~2月、1914(大正3)年5月~1918(大正7)年6月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 111,569 字 · 222 页
その小径は捨吉の好きな通路であった。そこには楽しい松の樹蔭が多かった。小高い位置にある城郭の名残から濠を越して向うに見える樹木の多い市ヶ谷の地勢の眺望は一層その通路を楽しくした。あわただしい春のあゆみは早や花より若葉へと急ぎつつある時だった。捨吉は眼前に望み見る若葉の世界をやがて自分の心の景色として眺めながら歩いて行くことも出来るような気がした。そこに青木がある、ここに菅がある、足立がある、と数えることが出来た。吉本さんに紹介された岡見というような人まで、彼の眼界にあらわれて来た。一日は一日より狭い彼の心が押しひろげられて行くようにも感じられた。
その土手の上の小径で、捨吉は自分の通って行く麹町の学校を胸に描いて見ることもあった。彼は吉本さんの雑誌を通して、略あの学校を自分の胸に浮べることが出来るように思った。雑誌の中に出て来ることも、いろいろだ。一方にプロテスタントの精神の鼓吹があり、一方に暗い中世紀の武道というようなものの紹介がある。一方に矯風と慈善の事業が説きすすめられ、孤児と白痴の教育や救済が叫ばれているかと思えば、一方にはまた眼前の事象に相関しないような高踏的な文字が並べられている。